2011年10月5日水曜日

脱原発へ・・・

山口県上関町の首長選に続き、北海道泊原発に近い岩内町の首長選でも、原発容認派が勝利。
北海道の高橋知事は泊原発3号機の営業運転をいち早く容認。経産省出身である高橋氏なら仕方ないのか。
地方の財政に苦しむ地域では当面の交付金は必要になってくる。現職原発容認首長が強いのも理解できる。

脱原発の声は大きいが・・・
本当に、安定して安全な代替手段が示されなければ、容易ではなさそう。

先日東海村村長の「原発を考える」の記事を目にした。
JCO臨界事故、福島第1原発事故を経験しても、利益追求主義、初期対応の無さは大きな問題で。その上、地震列島日本に54基もの原発を置き、放射能、放射線の問題、原発の後処理は後世送り。肝心の問題には目を向けさせないようにした国の政策は「哲学なきエネルギー政策だ」としした上で、日本の勤勉さと世界最高の技術を持って、エネルギー消費を減らして経済のスピードを落とし、思い切って自然エネルギーの導入に向けて政策誘導すればいい。
というように、「原発問題・脱原発」にたしての認識を示した。
やはり国策をもって指針を示すべきであろう。

一方、大分合同新聞に心配な記事を発見。
長野県松本市のNPO法人「日本チェルノブイリ連帯基金」と信州大病院が福島県内の子供130人を調査した結果、10人に甲状腺機能に変化があったとしている。

子供は大人に比べ、甲状腺機能低下症や甲状腺がんになる可能性が高い為大変心配である。
今後益々、変調をきたす子供出ないとも限らない。
エネルギー政策も大切であるが、子供たちの健康も第一優先で考えて頂きたい。

原発推進であった連合会長も「脱原発」の方針を示した。
個人的にも、いかに原子力エネルギーに依存しない社会に速やかに移行するかだと考える。その為の犠牲は国民も我慢するべきだろう。「吾唯知足」の心を思い出してもらいたい。

「佛遺教教」にも「吾唯知足」教えが説かれている。
汝等比丘、当に知るべし、多欲の人は利を求むること多きが故に、苦悩も亦た多し。少欲の人は求なく欲なければ、則ち此の患いなし。直少欲すら、尚、応に修習すべし。何に況や、少欲の能く諸の功徳を生ずるをや。少欲の人は則ち諂曲(てんごく・心の曲がったへつらうの意)して、以て人の意を求むることなし。亦復、諸根の為めに牽かれず。少欲を行ずる老は、心則ち坦然として憂畏する処なし。事に触れて余り有り、常に足らざることなし。少欲ある者は、則ち涅槃あり。是を少欲と名づく。
また、
汝等比丘、若し諸の苦悩を脱せんと欲せば、当に知足を観ずべし。知足の法は、則ち是れ富楽安穏のところなり。知足の人は、地上に臥すと雖も、なお安楽なりとす。不知足の者は、天堂に処すと雖も亦た意に称わず。不知足の者は富めりと雖も而も貧し。知足の人は貧しと雖も而も富めり。不知足の者は、常に五欲の為に牽かれて、知足の者の憐憫する処となる。是を知足と名づく。
とある。

震災・原発問題を決して忘れることなく、注視していくことが大切であり、心から一日も早い問題解決を祈ってやまない。

2011年10月3日月曜日

気づける心。。。

久しぶりに、昨夕子供の手をとって、ゆっくりと古い石垣が風情ある武家屋敷通りを散歩した。

毎日雑事に追われ、子供との時間が思うように取れない。

子育て中の親の多くはそうであろう。まして共働きなら間違いない。

「おとーさん。なんか好い匂いがするよ。」
「ほら、ほら、あっち。」
「何の匂い?」

指さす先には、小さな金木犀の花がたくさん咲いていました。
そういえば、お寺の裏門の植え込みも金木犀では・・?










お寺に戻り眺めてみると、可愛らしい木犀がひしめくように咲き、秋を告げる香りを放っていました。
心ゆったりとした時間の大切さを感じました。
花と香りにちなんで・・・

うるわしく、あでやかに咲く花で、しかも香りのあるものがあるように、善く説かれたことばも、それを実行する人には、実りが有る。
『ブッダの真理のことば感興のことば』中村元訳

実り有る生き方。自分だけの・・・

2011年10月2日日曜日

城下町杵築・観月祭

慌ただしいお盆が過ぎ、いつの間にやらお彼岸も過ぎ、「暑い暑い!」と言っておった夏は何処へやら・・・あっという間に10月を迎えました。 朝晩の冷え込みのせいで、体調を崩されている方もいるのではないでしょうか。
私もここのところ喉の調子が悪く困っております。

市内の行事を紹介します。
『城下町杵築・観月祭』
10月8(土)・9(日)
18:00~21:00
杵築市 武家屋敷一帯

当山も会場周辺に近いので、昨年もお邪魔しました。
幻想的な空間の中で、琴やオカリナ、ジャズの演奏があったり、お茶会があったりで情緒豊かな夜の祭典に足を運んでもらいたいです。

 

行燈のともしびを眺めていると、お釈迦様入滅の際、最後の教えとして示された「自灯明・法灯明」の教えが思い返される。

阿難尊者がお釈迦様の入滅後なにをよりどころに生きればよいのかと問うたのに対し、お釈迦様は「自らを灯明(よりどころ)とし、自らをたよりとして他をたよりとせず、法を灯明(よりどころ)とし、法をたよりとして他のものをたよりとせず生きよ」と諭されました。

先ず自己を整え、自らがよりどころとなる生活を送り、その自己を整える助けとして仏法をよりどころにしていくことが大切です。
禅は「仏心宗」と言われています。他に頼ることなく自己の内面を磨いていく教えです。
禅の教えに出会う喜び、法悦を感じてみませんか。