2011年9月30日金曜日

無門関・第七則 趙州洗鉢

昨日、万寿寺の記事を掲載しながら、無門関・第七則「趙州洗鉢」の則を思い返した。 趙州禅師の禅風は「唇皮上に光を放つ」と言われ、三十棒を与えたり、一喝を発したりと、機鋒鋭い禅風が有名であったが、趙州禅師は言句を巧みに操り、修行者を接得した。

《本則》
趙州(じょうしゅう)、因に僧問う、某甲(それがし)乍入(さにゅう)叢林(そうりん)、乞う師指示し給え。
州云く、喫粥(きっしゅく)了や未だしや。
僧云く、喫粥了也。州云く、鉢盂(はつう)を洗い去れと。
其僧省あり。
ある時、一人の僧が趙州に問うた。「私は僧堂に入ったばかりの新参者です。師よ、どうか指示をお与え下さい。」趙州は言った。
「朝ご飯は食べたか。」
「はい、食べました」と僧は答えた。
「それでは持鉢を洗っておきなさい」と趙州は言った。僧は心眼を開いた。










修行時分は典座で食事の煮炊きをするときも、飯台座で食事を頂くときも、公案三昧であったり、一挙手一投足、頭の先から足の先まで緊張感を持ち、微に入り細にわたり禅の真髄(真理)を求め、内面深く参究するものであります。
この僧も新参者とはいえ相当自己を参究していた為、「鉢盂を洗い去れと」趙州の言葉に悟りの境地に至ったことでしょう。

趙州洗鉢の公案に天童正覚禅師という方は次のような詩を詠まれた。
朝食終わって茶碗を洗えと言われ、
忽然として僧は心眼を開く。
今日各禅寺の名僧たちよ、
貴僧は悟っているのか、いないのか。

禅士は「五観の偈」を読まなかったことに加え、天童正覚禅師の厳し言葉「貴僧は悟っているのか、いないのか。」もっといえば、悟りの〝さ〟の字も耳が痛いが、貴様は禅僧としてどうだ!と問われているようであります。
真理を離れた自己はなし。あるがままの姿で本分に足を踏ん張っていたいものです。
以下無門の評語と頌を記します。

《無門の評語》
趙州口を開いて胆を見せしめ、心肝を露出す。
者の僧、事を聞いて真ならずんば、鐘を喚んで甕(もたい)と作す。
趙州は口を開いて胆を見せ、心肝を露出してしまった。
もしこの僧がそれを聞いて真旨をつかみ得ないならば、鐘をもって壺だと言うようなものである。
《無門の頌》
只分明を極むるが為に
翻って所得をして遅からしむ
早く燈は是れ火なることを知らば
飯熟すること已に多時
あまりに明らかなので
かえってうなずきにくい。
燈は火であることをすぐに知るならば
食事はとっくに出来ている。

参考資料・柴山全慶『無門関講話』 山本玄峰『無門関提唱』

0 件のコメント:

コメントを投稿